その晩は、思いのほか帰りが遅くなった。
 苦手な数学について、講師とマンツーマンで復習していた。
 夢中になりすぎて、講師の方から「そろそろ帰ろうか」と声をかけられるまで時間を忘れていた。
 時計を見ると、すでに十時半だった。これから自転車に乗って帰るとなると、家に着くのは十一時を過ぎる。
 ちょっと遅くなりすぎた、と今更ながら反省した。
 それでも、元気よく挨拶をして塾を出る。心配をかけるのも嫌だったし、元気よく自転車に乗って帰れば、夜の闇も気にならない気がした。
 荷物を自転車のカゴに放り込むと、楓はさっさと自転車を漕ぎ出した。
 夜風はぬるかったが、スピードに乗る爽快感があった。道は平坦で、自転車は漕げば漕ぐほどに速度を増す。
 恐怖心を振り切るように、楓はドンドン加速していった。
 その時だった。
 自転車の明かりが伸びた先に、いきなり黒い影が踊り出る。
 楓は驚いて、ブレーキを一気に握った。急な減速に耐え切れず、自転車ごと宙に投げ出されそうになる。
 なんとか体勢を立て直して道の端に止まったが、右肩を塀にぶつけてしまった。
 一瞬、鈍い痛みが右腕を走り抜ける。
 自転車を止め、右肩にそっと触れてみる。どうやら折れてはいないようだ。
 打ち身らしいとわかって、少し安心した。と、同時に、飛び出してきた影を確認する余裕がうまれた。
 見ると、そこには一匹の猫がいた。野良猫だろう。首輪はしておらず、顔付きもやや人間を敵視しているきらいがある。
 よく見ると、猫は何かを口にくわえていた。
 何だろう。
 猫は、ウロウロと落ち着きなく路上を歩き回っている。その姿が街灯の下に移動したとき、楓は悲鳴をあげそうになった。
 猫がくわえているのは、紛れもなく人間の指だった。
 驚いて猫が飛び出してきた方角を見ると、そこは公園だった。
 思わず、茂みを凝視する。
 いったい、なぜ猫は指をくわえているのだろうか。わからなかったが、公園の中に何かがあるのは間違いない。
 そこには、もしかしたら死体が転がっているかもしれない。そう思うと膝の力が抜けた。
 あまりにも、日常と掛け離れた光景だった。
 どうしていいかわからずに立ちすくんでいると、公園の入口から誰かが出てくる気配があった。
 ぞくり、と背筋に悪寒が走る。
 誰だろう。
 遠すぎて、相手の様子は見えない。だが、ゆっくりとこちらにやって来る様子だった。
 逃げなきゃ。
 そう思うが、足は全く動かなかった。まるで全身の筋肉が麻痺したように、その場から動けなくなっていた。
 まずい。
 逃げなきゃ。
 早く。
 早く。
 焦っても焦っても、体は動かない。少しずつ、影はこちらに近付いて来る。
 暗闇に、白い顔が浮かび上がった。両眼が赤々と光っている。
 出た。
 そう思った。
 怪人黒マントだ。
 泣き出しそうだった。
 叫び声もでそうだった。
 しかし、実際は何もできない。声も出せず、ただその場に立ち尽くすだけだった。
 誰か、助けて。
 心の底から、そう思った。見ると、やって来る怪人の足が早まっている。どうやら、向こうもこちらに気付いたようだ。
 殺される。
 声にならない声が、行き場を失って全身を駆け巡るようだった。
 助けて。
 助けて。
 助けて。
 助けて。
 すでに、相手の輪郭がハッキリとわかる距離だった。黒マントに全身を包み、背中に長剣を差した仮面の怪人が、ゆっくりと歩み寄って来る。
 泣き出しそうだった。
 震えが止まらなかった。
 声も出ない。
 ギュッと唇を噛み、まぶたを閉じた。
 もう、足音が聞こえる距離だ。
 殺される。
 心臓が跳ねる。
 死を覚悟した。
 その時だった。
「そこまでだ」
 声がして、目を開けてみると、目の前にもうひとつ黒がいた。
 長身、黒髪、黒い上下に足回りも黒い。闇から溶け出してきたような男が、黒い刀を右手にぶら下げて立っていた。
 怪人との距離は、もう五メートル程しかなかった。怪人もいつの間にか剣を抜き、目の前の男に対して身構えている。
 男が、振り返って楓を見た。
「ケガはないか?」
 声が出ないので、代わりに楓は頷いてみせた。
「動けないのか…」
 男は、小さく溜息をついた。
 怪人から目をそらさず、そっと楓に近付いた。塀にもたれていた楓の髪を、ふわりと男の左手がなでる。
「大丈夫だから、そこにしゃがんでろ」
 やや吊り目の、どこか皮肉げな印象の男だったが、その声は驚くほど優しかった。
 楓がゆっくりと地面に座り込むと、男は少し距離をとった。
 その間、黒マントの怪人は、身じろぎもせずに二人のやりとりを見ていた。冷たい仮面の奥にどのような表情を隠しているのか、全く見当がつかなかった。
 やれやれ、と男―加藤久志は嘆息した。偶然とはいえ、少女を庇って戦う羽目になってしまった。
 相手は、おそらくそれを見越しているだろう。
 守りながらの戦いは、それだけで不利になる。
 久志は、右手に刀をぶら下げたまま、相手の出方をうかがった。怪人は、左半身を前にして、脇構えで立っている。
 得物は長剣のようだが、長身に隠れているせいで間合いが読めない。怪人も、久志に負けず劣らずの長身であった。
 加えて、相手のマントである。動きの邪魔になるようにも思えるが、構えを隠すには十分過ぎる効果があった。
 久志は、相手の動きを読もうとして、全神経を集中させた。
 一撃必殺。
 久志の狙いはそれだった。
 刃圏を見切り、そのギリギリでかわし、懐に飛び込んで一撃で仕留める。
 そのためには、相手の間合いを見切る必要がある。
 まず、相手の攻撃を誘い、得物の長さを知りたかった。だが、不用意に打ってくるような相手ではない。
 互いに、手が出せぬまま時間が過ぎた。三分か、五分か。信じられないような長い時間に感じられた。
 手は出せないが、対峙しているだけで気力が削られていく。
 久志も怪人も、身じろぎもせずに立っていた。
 互いの眼と眼が、斬り結ぶような熱を帯びる。