my魂

カテゴリ: ブラックアウト

 今年も、あっという間に二月だった。
 一時は精神的に参っていた久志だったが、結局は食っていくために賞金稼ぎを再開した。
 小夜子が、相変わらず情報をくれる。彼女がどうやって情報を調べているかは知らないが、久志にとってありがたい存在なのは間違いない。
 今日も、もらった情報を元にして大物賞金首を待ち伏せ中だ。
 ゲロと小便の臭いがする裏路地で、一日中待ちぼうけだ。
 賞金額五十万円のことを考えれば、多少のことは屁でもない。
 いつもより比較的寒さの穏やかな冬だったが、二月に入ってからは一気に気温も下がり、例年以上の冷え込みを記録していた。
 早く来いよなぁ。
 四角い寒空を見上げながら、久志はたまらずに愚痴をこぼした。
 現れたら、有無も言わさずに斬るつもりでいた。
 気付かれて、下手に抵抗されると厄介だ。背後からでもいいし、とにかくさっさと終わらせよう。
 そんなことを思っていると、ちょうど目標の男がやって来た。
 元軍属だけあって体格が良い。軍の支給品らしいコートを着込んでいたが、それさえも窮屈そうに見えた。腰のベルトには、ごついアーミーナイフと大型拳銃が挟んである。
 驚いた。賞金稼ぎ制度が導入されて以来、銃器に対する規制はいっそう厳しくなった。警察か軍関係者でない限り、所持するだけで厳罰が下される。
 そもそも、どこで手に入れたのだろうか。
 最近、軍のスキャンダルをチラチラ耳にするが、それと関係あるのかもしれない。
 どちらにしても、拳銃を持った相手に正面から挑むのは避けたいところだ。
 相手は、こちらに気付いていないようだった。久志は息を殺し、暗い路地裏に身を潜める。
 久志がいるのは建物の隙間だ。路地裏の中でも特に暗く、おいそれと発見される恐れはない。
 息を殺し、接近に備える。
 何も気付かずに、相手はこちらへやって来る。
 もう少し。
 あと、一歩。
 いきなり、久志の携帯電話が鳴り出した。
 しまった。
 思ったときには、相手はすでに拳銃を構えていた。さすがは元軍属、無駄のない動きだった。
 今のことで、こちらの正確な位置をつかまれたようだった。
 仕方なく、久志は腰の鞘を引き抜いて、相手の頭目掛けて投げつけた。
 轟音が二回。
 大型のマグナム弾が、鞘を粉々に砕いていた。
 久志は、身を沈めて踏み込む。鞘が砕かれるのとほぼ同時に、相手の足元に飛び込んでいた。
 相手の反応は凄まじかった。
 銃口が、こちらを向いている。
 久志の生存本能が、強烈に彼の体を動かす。
 頭をそらし、体が伸び上がる勢いに任せて斬り上げた。ちょうど蛙跳びをやるような、およそ剣術とは思えぬ不細工な動きだった。
 轟音。
 熱い。
 額に、何かがかすめた。
 跳躍しきって、今や相手の顔が眼前にあった。
 その顔は、顎から脳天まで見事に割られていた。その脳天の上には、今、その切り口をなぞったばかりの自分の刀が、血濡れになって飛んでいた。
 勢いに任せて逆手打ちにしたので、慣れない握りに握力がついていかず、刀がすっぱ抜けたらしかった。
 久志は、着地に失敗して地面に転がった。その横に、頭の中身を撒き散らしながら、死体が転がり落ちる。
 少し遅れて、刀が落下した。
 倒れたまま、しばらく動けなかった。銃口がこちらを向いていたのが、目に焼き付いていた。
 深呼吸をして、気を紛らす。
 それから、ようやく額に手をやった。ぬるりと、血の感触があった。傷口は浅かったが、手で押さえるとドクドクと脈打つのが感じられる。
 死ぬかと思った。
 ノロノロと、ようやくのことで立ち上がる。自分の足のはずだったが、不自然なほど力が入らなかった。
 刀を拾う。
 ズシリと重い。
 信じられないほどの疲労感があった。
 連絡をしようと、携帯電話を取り出した。ディスプレイを見て、ようやく携帯のせいで死の危機に直面したことを思い出す。
 さっきの着信は、小夜子からのメールだった。
 いつも、仕事中に連絡してくるなとしつこく言ってあるのに、今日に限って何だろう。
 右手についた血をジーパンで拭い、携帯電話を操作する。
「終わったら、こっち寄って。よろしこ」
 短い文章に、怒りが込み上げてくる。行ってみて、しょうもない用事だったら、怒りはおさまりそうもない。
 賞金稼ぎ支援センターに連絡して、すぐに賞金の手続きをする。ついでに、センターの職員が持っていた救急セットで、額の傷を止血してもらう。
 血が止まると、少し落ち着きを取り戻した。何か急用かもしれないし、とりあえず小夜子の自宅まで向かうことにした。
 車の中は冷蔵庫のような冷たさだった。鞘のなくなった刀は、仕方がないので抜き身のまま後部席に寝かせておく。
 まだ頭がチクチクと痛む。
 包帯を巻かれた額を少し撫でてから、久志は車のエンジンをかけた。夜の路地を、静かに車が滑り出す。
 小夜子の家まではあっという間だった。新西寺の高級住宅地までは三十分とかからなかった。相変わらず金のあるところには金は転がってるもんだ、などと思いながら、門の前に車を停めて電話をかける。
 すぐに、小夜子が出てきた。
「あ、何それ。怪我したの?」
 車に乗り込むなり、そう言って久志の頭を見る。その服装がちょっと小綺麗だったので、久志は嫌な予感を覚えた。
「どうでもいいから、早く用件を言ってくれ。頭もいてえし、ノンビリしてる暇はねえんだ」
 嘘だった。車で走っている間に頭痛は取れていたし、特にやるべきこともない。だが、疲労で体がズシリと重かった。拳銃を向けられた緊張感からか、いつもは考えられないほどに疲れきっていた。
 小夜子は、少し困ったような顔をした。
「もしかして、私がメールしたから?」
 小夜子は頭の良い少女だ。一瞬で、何が起こったのかを悟ったらしい。いや、もしかしたら久志の声にトゲがあったからかもしれない。
「いや、まあ…電源を入れてた俺の失敗だ」
 疲れた声で、呟いた。彼女の言葉を否定する余裕は、今の久志にはなかった。
「ごめん」
 消え入りそうな声に、久志はようやく我に返った。隣では、小夜子が大粒の涙をこぼしていた。
「いや、お前のせいじゃねえよ」
「だって、私がメールしたからでしょ?」
「違うって」
「キュウちゃんのこと、追い詰めちゃったんでしょ?」
「大丈夫だから、いいから落ち着けよ」
 しばらく、小夜子が泣くのを横目に見ていた。我ながら情けないと思いつつも、かける言葉が見つからなかった。
 シートに深くもたれ、細長い溜息を吐き出した。
「ところでさ」
 小夜子が落ち着くのを待って、尋ねる。
「何の用だったんだ?」
 まあ、服装を見る限り、どっか連れてけってのが当たりだろうけどな。そう思って、いつものあっけらかんとした言葉を待ったが、小夜子は俯くばかりで何も言わなかった。
「どっか行くんだろ?」
 答えない。なぜだか、いつもの小夜子とは雰囲気が違うような気がした。さすがに、泣いた後だから気まずいのだろうか。
 また、沈黙。
 耐えられないのは、久志の方だった。
「いいよ。言えよ」
 前を向いたまま、久志はそう言った。沈んだままの小夜子の顔を直視できなかった。
「気晴らしにもなるし、どっか行こうや」
 軽く言ってみたつもりだが、それでも答えは返ってこなかった。チラリと液晶のディスプレイを見ると、時刻は二十時になろうとしていた。
 今日は一日中張り込みだったので、待つことには慣れっこだ。
「だって」
 ようやく、口を開いた。
「こんなつまらないことで、キュウちゃん死にかけたんだって思ったら…」
 声は弱々しかった。
「私、なんかさ…」
「大丈夫だよ。こいつはかすり傷だし、俺はそう簡単には死なねえよ」
 言葉を遮って、久志は言った。言ってから、ようやく小夜子と目を合わせた。まだ泣いている小夜子の目は、大粒の涙を溜めていて妙に綺麗だった。
「で、つまらないことってのは、何のことだよ?」
 小夜子が、一瞬目を逸らした。が、おもむろに、持っていたバッグから何かを取り出した。
「ごめんね。いっつも、色々お世話になってるからと思って…」
 忘れていた。
 すっかり忘れていた。
 今日は、二月の十四日だった。年中行事など、すっかり忘れるような生活をしていた。
 小夜子が、泣き顔で小さく笑っている。きっと、俺は今わけのわからない顔をしているんだと久志は思った。
 言葉が出なかった。
 「ありがとよ」と言いたかったが、照れ臭かった。包みを受け取ったまま固まってしまった。
 小夜子は、まだ可笑しそうにしている。
 ちょっとは元気が出たらしい。
 久志も、どうしていいかわからないままに笑った。
 可笑しそうに、ただ笑った。


 あの夜のことは、生涯忘れることはないだろう。
 小夜子に無理矢理連れられて来た大型のショッピングモールを歩きながら、久志はまたあの晩のことを考えていた。
 その両手は、すでに小夜子が買った商品の袋でいっぱいになっている。今も、小夜子はブティックの前で何やら物色しているところだった。
 買い物に来るような気分にはなれなかったが、自分を元気づけようと気遣う小夜子に負けて車を走らせることになった。と、思っていたが、買い物をする姿を見ている限りでは、本気でショッピングを楽しんでいるだけのような気もする。
 まあ、家で腐ってるよりはマシか。
 そう思うことにした。
 あれから、一ヶ月近く何もする気が起きなかった。佐藤楓は、友人の敵討ちができたことへの礼は言ったが、恩師を斬り殺したことへの恨みは一言も言わなかった。
 あれから、彼女と連絡は取っていない。平凡な日常へ戻れたか、久志と同じように抜け殻のようになっているかはわからない。
 あの夜、彼女には決闘の場所がわかっていた。久志も小夜子も言わなかったが、暗にそう匂わせるような態度があったからだ。彼女の携帯電話から明彦に送ったメールも、消去しなかった。
 いちおう、小夜子が一緒にいて楓が無謀なことをしそうになったら止める手筈になっていたが、それも無理な気がしていた。
 楓が乱入し、明彦の気持ちが乱れるのを期待していた。
 久志は、そんなことまで計算に入れて、明彦と立ち合った。必勝とまでは言わないが、生き残る確率をギリギリまで引き上げる工作をしていたのだ。
 そのことが、今になって久志の心を蝕んでいた。
 本当に、良かったのか。
 狡猾な、卑劣な罠だったのではないか。
 あの後、明彦が残した手記が見つかった。そこには、ただひたすらに賞金稼ぎに憧れる気持ちが綴ってあった。
 賞金稼ぎに憧れ、明彦は人を斬りまくっていた。一般人で試し切りをし、その後は実際に賞金首を斬っていたらしい。
 ただ、彼は精神的な疾患を患っていた。気持ちが異様に高ぶり、自分を抑えられなくなるようなことがしばしばあったらしい。
 精神疾患がある者に対しては、賞金稼ぎの資格は簡単に交付されない。
 それで、彼は隠れて人を斬り続けたのだ。
 明彦のそんな事情を知っても、久志は泣けなかった。ただ、胸に大きな穴でも開いたように、虚しい気持ちでいっぱいだった。
 俺が斬らなければ、これからも人を斬り続けたのか。
 どうせ、自分だってこれからも人を斬り続けるのだ。久志は自嘲的な笑みを浮かべる。賞金首、という札が貼られているだけで、人命には違いない。
 なのに俺は、人を斬り殺しながらのうのうと生きている。明彦の実力を知り、正面から挑む気力もなく、小細工を弄してまでその命を奪った俺が。
 そんなことを考えはじめると、ズルズルとネガティブな思考の泥沼にはまっていく気がした。
 ああ、いかん。
 ふと、気がつくと、小夜子が心配そうな顔でこちらを見ている。
「重てえよ」
 ポツリと漏らすと、小夜子は小さく笑った。それから、また買い物に戻る。
 やれやれ。
 溜息がひとつ。
 そう言えば、自己嫌悪に陥らずにすみそうな一言をかけてくれたのは、小夜子だった。
 気持ちはまだまだボロボロだったが、それでも何とか生きているのは、その一言のお陰だったかもしれない。
 涙と鼻水でグシャグシャの顔で小夜子は言ってくれた。
「キュウちゃんが生きてて良かった」
 本当に良かったのか、わからない。それでも、この一言を信じようと思う。
 色々なものを失い、あるいは得ながら生きている。変わるものもあれば、変わらないものもある。
 自分を許せない日もあれば、これでいいのだと思える日もある。
 これからも、きっと久志は迷うだろう。
 それでも生きていく。
 生きてて良かったと、そう思いながら。あるいは、そう思えるようになるために。
 買い物に夢中な小夜子の後ろ姿を見つめながら、久志は両腕いっぱいの荷物の重さを感じていた。


 静寂に包まれていた。
 先程までの立ち合いが嘘のように、今はただ夜の静寂が横たわっている。
 久志は、不思議と落ち着いた気分でいられた。
 なぜだろう。
 自分の教え子を斬ろうとしているのに、これほど落ち着いていられるのはなぜだろう。
 澄み渡る夜空のように、心は静けさに満ちている。
 今、これほどに澄み切った心でいるのはなぜだろう。目の前の男を、これから斬ろうとしているというのに。
 いや、もしかしたら倒れるのは自分の方かもしれない。だとすれば、これは死を目前に覚悟を決めた者の心境なのだろうか。
 違う。
 何となく、そう思えた。
 死を意識してはいない。自分が斬ることも、斬られることも意識してはいない。手には、人殺しの道具の感触がずしりと重い。
 だが、血生臭い殺意とは、無縁な気持ちでいられる。
 なぜだろう。
 感覚が麻痺しているのか。
 極度の緊張で?
 教え子を殺さなければならない重圧で?
 罪なき人々を斬り殺した殺人犯への怒りで?
 賞金稼ぎとしての使命感の強さのせいで?
 違う。どれも違う。
 ああ、こう思うことすらもどかしい。いっそ、思考することが邪魔でさえあった。考えた瞬間、それが脳内で言語に変換されようとするプロセスがもどかしい。
 そうじゃない。
 もっと、
 もっと、
 もっと何か感覚的な何かだ。
 明彦、お前もだろう。
 久志は、長刀を担いだ仮面の青年を見つめた。殺気はなく、ただ突っ立っているようにも見える。
 隙だらけだ。
 きっと、明彦からは、俺がこう見えているんだろうな。
 おっと。
 まただ。
 また、俺は思考している。
 何を考えても、この静寂は途切れない。今、これほど静かにいられるのはなぜだかわからないが、久志には、とてもステキなことのように感じられた。
 明彦、お前もだろう。
 いけねえ。
 ふと、唇が吊り上がるのを感じる。笑っちまう。
 にやり。
 抑えられねえ。
 明彦、もしかしてお前も笑ってるんじゃねえのか?
 仮面の奥で、俺と同じ顔を…
「先生!」
 不意に静寂が破られた。
 一瞬。ほんの一瞬、明彦の神経が声に反応した。
 久志は動いた。
 明彦も動いた。
 一瞬。ほんの一瞬、二人の刃が交錯した。
 血煙を上げて倒れたのは、明彦だった。久志にも、どこを斬ったのかわからなかったが、凄まじい勢いで血が噴き上がったかと思うと、倒れ込んだ明彦はそれっきり動かなかった。
「先生!」
 叫びながら、佐藤楓は物言わぬ明彦に駆け寄った。倒れた拍子に仮面は剥がれ、蝋のように白い顔がさらされていた。
「先生、先生!」
 泣きながら、楓は明彦の体を揺すった。一瞬、久志にもその死に顔が見えた。
 微笑だった。
 清々しいほどの微笑。
 久志は、思わず目を伏せた。
 つい今まで何でもなかったはずなのに、急に久志は心が重くなったように感じていた。
 それをごまかすように、いつもと変わらない調子で、携帯電話を取り出す。
 いつも通り、賞金稼ぎ支援センターに連絡する。
 手短に状況を説明すると、すぐに電話を切った。
「キュウちゃん」
 楓に遅れて来た小夜子は、息を切らしていた。
「大丈夫?」
 白い息を吐きながら、小夜子は久志に駆け寄ってきた。答える代わりに、久志は小夜子の頭に手を置いた。
 久志と小夜子は、楓が泣くのを黙って見ていた。
 明彦にしがみつくようにして、ずっと泣き続けている。
「こんなのってないよ」
 楓がようやく漏らした言葉が、なぜか久志の胸に突き刺さった。

 夜の公園に、黒い影がふたつ並んでいた。
 どちらも刀を携え、お互いに顔を見合わせていた。朝倉明彦の顔は、蒼白だった。そこに立っているのが、かつての恩師だとすぐにわかったからだ。
 加藤久志は、わざとらしいほどに殺気に満ちていた。普段、賞金首と相対するときでさえ、これほどに濃密な殺気をまとうことはない。いわば、無言のうちに相手を斬る意思を伝えているのである。
 そうでもしなければ、久志はの心は折れてしまいそうだった。
 思い出も、愛情も、愛着も、友情も、あらゆる人間らしい感情をかなぐり捨てなければ、目の前の青年を斬れそうもなかった。
「佐藤楓なら来ないぞ」
 久志は、なんとか声だけは冷静に発することが出来た。
 蒼白な顔面をこちらに向けていたが、明彦は何も答えなかった。ただ、殺気に応じるように、抱いていた長剣の鞘を払っていた。
「先生…」
 何か言いかけた明彦を、久志の動作が制した。
 無言で、腰の刀を抜く。
 もはや言葉はなかった。
 なぜ、と久志は聞かなかった。学生のころ、何があっても久志はまず「どうしたんだ?」と聞いてくれた。
 それがない。
 そのことで、久志の本気を知った。どうやら決意は固い。
 だが、明彦には斬られるつもりはなかった。たとえかつての恩師を斬ることになっても、生き延びたいと思う気持ちがふつふつと沸き上がってきた。
 まだ、死ねない。
 明彦は、そう思った。
 ここで死んでは、これまで人を斬ってきたことが無駄になる。明彦にとって、人を斬ることは練習に過ぎなかった。
 ひたすらに人を斬って、腕を磨きたかった。はじめは武器を持たない一般人で試したが、慣れてきてからは賞金首で試した。
 賞金稼ぎでない者が人を斬ることは法に触れるので、そのことは申請していない。中には、いまだに生存を有力視されている賞金首もいる。
 明彦が斬りまくった一切の情報は、闇に消えていった。
 わざわざ仮面まで被り、目撃者も斬り、人斬りを続けた。
 あの日、竹野香織がその現場を目撃しなければ、彼女は斬らずにすんだ。最初、明彦は気付かなかったが、二、三日香織の様子を見ていてわかったのだ。
 仕方なく、明彦は斬った。
 あれがなければ、今、こうやって久志と対峙することもなかっただろう。
 あのとき、歯車が狂ったのだ。
 無言のまま、明彦は脇構えにつける。数々の命を奪ってきた、必殺の剣だ。これを出すことが、久志の本気に応えることだと思っていた。
 久志は、中段。
 右にやや傾いたような構えには何の工夫もなかったが、黒い刀身は闇に溶け込み消えていた。
 何度も見た顔だったが、それは明彦のよく知った久志の顔ではなかった。以前対峙したときも、同じ違和感を感じていた。
 まともに相対できず、明彦は隠していた仮面をつけた。
 白面の奥に、感情と表情を隠して久志に刃を向ける。
 すでに、久志は斬ることに集中している。明彦が仮面をつけ、怪人を演じたことでその気持ちは強まった。
 どちらかが死ぬ。
 それだけは強く感じていた。勝つか負けるかはわからない。しかし、勝つときは殺すときだ。そして、負けるときは死ぬときだ。
 冬の夜風が、遠慮なしに二人の体温を奪う。肉の強張りが起これば、刃は命まで届かない。
 どちらも、勝負を急ぎたいところだった。だが、どちらも動けない。先に動いた方が不利なのは、お互いによくわかっている。
 寒い、長い数分が過ぎた。
 互いに、相手を見据えているだけで、わずかにも動かない。
 斬る。
 その気持ちだけが、今や二人の共通項であった。
 賞金稼ぎと賞金首と。
 誰よりも、何よりも濃い密度を持つ殺意で繋がりあっていた。
 わずかに、久志が動いた。
 右に傾いていた切っ先を下げ、ゆっくりと下段へ移行していく。
 それが終わる前に、明彦は鋭く打ち込んでいた。
 無拍子でいきなり踏み込んできた明彦に、久志はわずかながら反応が遅れた。
 接近したかと思うと、あっという間に二人は離れた。
 久志には、鈍い痛みがあった。どうやら、肩口を斬られたらしかった。革ジャンも半袖も斬られ、傷口が見えていた。
 浅い。
 踏み込まれる寸前、ギリギリのところで鍔を合わせて勢いを殺したからだ。
 危なかった。
 思わず、冷や汗が出た。もう少し反応が遅れていたら、右腕が斬り飛ばされていた。
 これほどの腕前か。
 久志は、驚いた。自分が知っている朝倉明彦は、とても刀など握るようなイメージではなかった。だが、実際には、彼は以前から人斬りを繰り返し、己の教え子の命さえ奪ったのだ。
 どこでどう、いや、何をどう間違えたのだろうか。
 久志は、戦いの中にあって、そんなことを思っていた。互いに真剣を向けた相手のことを考えても仕方のないことだったが、考えずにはいられなかった。
 かつて、自分の教え子だった。
 あの頃、俺はどうして明彦の闇に気付けなかったのだろう。
 なぜ、明彦は人の命を奪うことに魅せられたのだろう。
 今となってはどうにもならないことばかりだったが、なぜか白刃を持って相対していると、そんなことばかりが次から次へと浮かんでくる。
 瞬間、明彦が前へ出た。
 ぎいん、と刃の音。
 凄まじい斬撃を、久志が受け流していた。恐ろしい速さだった。
 久志は、踏み込んでいく。一撃の後の、刃を戻しきる前に、こちらの刃を当てる気でいた。
 黒刃が、黒い閃光となって跳ねる。それを受け流しながら、明彦はなおも前に出た。
 ごりっ、と鈍い音がした。久志の放った蹴りが、明彦の太股を捉えていた。
 よろめく。
 前へ。
 一閃。
 久志の刀が、横一文字に閃く。
 パッと、血が飛んだ。
 浅い。皮一枚。
 思考より早く、長剣が跳ぶ。
 久志は下がる。
 一歩。
 足りない。
 あと、半歩。
 考えるより早く、久志の体は動いていた。一歩半下がり、ギリギリで攻撃をかわす。
 休む間もなく、明彦が踏み込んでくる。
 刀を立てて、鍔ぜり合いに持ち込んだ。白刃の向こうに、青白い仮面が迫る。その眼窩の奥には、見知った目があるはずだった。
 がっ。
 久志が蹴る。
 今度は、まともに腹に入った。明彦が大きくよろめく。
 今だ。そう思う瞬間にはもう、久志の刃が振り下ろされていた。
 首を飛ばすつもりで放った一撃だったが、明彦の誘いであった。よろめいた体勢から上体をひねった明彦は、疾風のように斬り上げていた。
 危うく、自分の首が飛ぶところだった。久志は半身になって、何とか一撃をかわしていた。
 離れる。一秒でも、二秒でも、一息つきたいと思った。
 すでに、二人とも呼吸が乱れ、それぞれ浅いながらも傷をかばっていた。気を抜けば一瞬で死に飛び込んでいく緊張感が、疲労を加速させていた。
 どうする。
 久志は思った。
 どうすれば、こいつを斬れる。
 斬られたせいか、いつも以上に興奮状態に陥っている。思考が乱れ、うまく考えることが出来ないでいた。
 どうやって、倒すか。
 問題は、間合いの差だ。明彦の長刀に対して切り込むには、懐に潜り込むしかない。だが、明彦はやすやすとそれを許すような男ではなかった。
 当然、踏み込まれて不利になることを承知している。先程から、何度も刃が交わったが、久志は、自分の思うところまで間合いを詰めることが出来なかった。
 あと、半歩。それが届かないのである。明彦は、常に紙一重でかわしている。恐ろしい間合いの読みであった。
 久志は、深く息を吸った。
 熱くなった体に、急激に冷たい空気が送り込まれる。
 吐く。
 呼吸も興奮も収まり、一瞬で冷静さを取り戻す。
 来た。
 見えるというより、感じた。明彦は身を縮めるようにして踏み込んできた。
 下段からの斬り上げ。
 かわす。これは、わずかに鼻先をかすらせた。
 攻め…ない。
 明彦の目が、こちらが踏み込んでいくのを待っている。あえて、久志は右へ飛びのいた。
 明彦が意表を突かれる。
 こちらの動きを追って、身を移そうとしたその刹那に、久志の斬撃が走っていた。
 手応えがあった。
 一瞬、目の前に朱が散る。明彦の右の二の腕だ。パッと間合いを離したが、刀を握った手を伝って血が滴り落ちているのが見えた。
 久志は前へ出た。
 とっさに、明彦が刀を振るう。右手は死んでいなかった。十分な殺傷力を持った一撃が、首元へ迫る。
 久志は避けない。前へ出て、鍔元を肩で止めた。長剣のリーチが邪魔になった。
 そのまま、体重を浴びせて明彦を吹っ飛ばす。体ごと当てられ、たまらず明彦は地面を転がった。
 仕切り直しとなった。
 幽鬼のようにふらりと立ち上がった明彦は、刀を肩に担ぐようにして構えた。相変わらず背中越しに隠された刃には、間合いを掴ませぬ工夫があった。
 見たこともない構えだったが、鬼気迫るものがあった。
 いよいよ、最後かな。
 久志も覚悟を決めた。ゆっくりと、刀を鞘に収める。そして、右半身で腰を落とし、居合抜きの構えを見せた。
 明彦からは、久志の右肩と背中しか見えない。
 久志からは、明彦の左半身しか見えない。
 互いに、最後だという確信があった。いよいよ、どちらかが死ぬ時だ。
 相変わらず風は冷たかったが、もはや二人の体温を奪えるものは何もなかった。
 燃え盛る魂がふたつ、闇の中に輝いていた。

 佐藤楓から連絡があったのは、あと数日で年も改まるという頃だった。
 クリスマスも終わり、新年の準備でどこも忙しそうな雰囲気だ。街は、いつもより落ち着きを欠いているようにも思える。
 朝倉明彦は、楓からのメールを見返した。
「香織の日記を読みました。先生に聞きたいことがあります」
 目の前が真っ暗になる。
 ついに、恐れていたことが起きたのだ。楓と香織が仲がいいのは知っていたが、香織が知った秘密を楓にも知られるとは思わなかった。
 彼女も知っているのではないかと疑ったこともあるが、すぐにそれは杞憂だと知った。香織の死後も、楓の態度が変わることはなかったので、それとわかった。
 だが、今ついに楓も秘密を知ってしまった。まさか、香織が日記を残していたなどとは。そして、そこにあのことが書かれていようとは。
 楓は、直接会って話がしたいと言ってきた。
 黒いロングコートに身を包み、明彦は約束の場所へ向かう。その顔は、能面のように白い。
 長刀を抱え、明彦はせわしい街の中を歩いていく。
 約束の場所は、香織を斬ったあの公園だった。
 わざわざ、あの場所を指定してくるところに、楓の気丈さが感じられた。そういえば、楓は空手の有望選手だ。もしかしたら、話を聞いたあと敵討ちをするつもりかもしれない。
 また、斬るのか。
 一瞬、背筋が凍りつくような感覚があった。だが、それもすぐに去り、あとは恐ろしく冷静な自分だけが残っていた。
 あの娘は、俺が人殺しだと知っている。
 俺の秘密を。
 斬るしかない。
 頭の中は冷ややかだった。いつもより、冴え渡っているように感じる。
 まただ。
 また。
 人を斬ろうとすると、いつもこうなる。
 今夜も、きっといつも通り。
 いつも通りに、斬る。
 明彦は、冷静だった。
 いつも通りの足取りで、約束の公園へ向かう。人を斬ることに慣れた自分には、もう違和感はなかった。
 最初に人を斬ってからしばらくは、人を斬ることを恐れたし、嫌悪感もあった。だが、人を斬ることはやめられなかった。
 そのうち、慣れるにつれて、人を斬る自分に違和感を感じるようになった。冷静に、人を斬ることを考えられているが、そんな自分には現実感がなかった。
 まるで、他人を見ているような気さえした。
 だが、今はもう、人を斬ることは普通のことになっている。恐れもなければ、違和感もない。
 ただ、斬ると思いさえすれば、自然とそういう空気になる。
 今夜も、斬ると念じるだけでよかった。斬ろうと思った時から、すぐに人を斬れる空気に変わっている。
 いちおう、仮面は持ってきている。万が一のこともあるので、正体は隠しておかなければ。
 いつも通りの足取りで、明彦は公園へと歩いていく。
 やがて、公園の入口が見えた。
 一度足を止めて、念のために仮面をつける。抱いていた長剣を確かめるように少し抜き、また鞘に戻した。
 ゆっくりと、公園に入る。
 楓の姿を探したが、見当たらなかった。おかしいと思ったが、約束より少し早いのかもしれないと思い直した。
 すでに、人を斬る感覚に酔いつつある。
 迂闊だった。
「おい」
 不意に、背後から声をかけられた。相手はどこかに潜んで息を殺していたらしい。驚いて、明彦が振り返る。
「佐藤楓なら来ないぞ」
 そこに立っていたのは、殺気に満ちた加藤久志だった。

このページのトップヘ