my魂

タグ:創作

 いつも夢を笑わない集まりにご参加いただいている皆様、ならびにまとめ記事をご覧になっている皆様、本当にありがとうございます。
 さて、夢を笑わない集まりも今月で第6回を迎えることになりました。
 毎月開催しているので、半年間続けられたことになります。
 企画当初は、毎月開催の勉強会(交流会)といったところで、どれだけの参加が見込めるだろうかと不安でしたが、実際には毎回ご好評をいただき、参加者も増えつつあります。
 また、遠方で参加はできないけど…というコメントを添えていただきながら、まとめ記事を見てくださる方が何人もおられます。
 先の話にはなりますが、半年を通過した時点で、私の中では10回目を節目として考えております。その際、様々な事情でご参加いただけない方や、たまたまブログを見て興味を持っていただいた方をも巻き込んで、何か形のあるものができないかと悩んでおりました。
 その案が、昨日ようやくまとまりましたので、こうしてブログ上で発表させていただきます。

 第10回を記念して、『夢を笑わない冊子』を作成します!

 内容は、夢に向けた決意の一言、作文、感想文、俳句、詩歌、イラストなど、とにかくあなたの夢を形にしたものならば何でも結構です。
 普段、ご参加いただく方だけでなく、どなたでもご応募いただきたいと思います。
 応募は、メールかメールへの添付ファイルで行いたいと思います。
 冊子が完成次第、お送りいただいたメール宛に電子データで返送させていただきます。
 皆様の、夢に関する熱い想いを、ぜひとも形にして残しませんか?
 冊子を広げれば、見知らぬ地で頑張る、誰かの夢がきっと輝いています。その中に、あなたの夢も届けてみませんか?
 下記の応募要項をご覧の上、ぜひお願いします。

応募要項

 内容:夢に関する文章。その他、絵画・イラスト、写真(人物不可)。ただし、未発表のもの。
 応募形式:文章は1600字以内、イラストは25MB以内。文章を添付される場合はMicrosoftOfficeWordに対応した形式でお願いします。メールで添付の場合は、絵文字や顔文字は再現出来ません。

 必ず、タイトル、ペンネームを添えてご応募ください。

 応募先は
  yumewowarawanai@gmail.com

 締切は8月31日

 冊子の完成は、11月頃を予定。
 MicrosoftOfficeWord形式でお送りします。

「亮、亮!」
 またか。
 久我山は、思った。
 普段、全く睡眠をとらない彼だったが、月のうち何度かは眠りに落ちることもある。
 その時、決まって見るのが、あの日の光景だった。
「亮」
 低く、くぐもった母親の声。
 気が付けば、自分の姿は高校時代に戻っている。確か、あれは十六歳のことだった。
 あの日、恐るべき大災害が関西副首都圏を襲った。今では天海事件と呼ばれている、隕石落下事件のことだ。
 海上都市・天海市を中心に、大阪湾一帯の都府県は甚大な被害を被った。特に、大阪都を中心に関西副首都圏を形成していた中心部分の被害がひどく、戦後最大の災厄として世界中に報じられた。
 あの日、瓦礫と廃墟の中で久我山が見たものは、人ではなくなった母の姿だった。
 姿形は間違いなく自分のよく知る母であったが、それがすでに異質な存在であることはすぐにわかった。母が歩くと、その周囲の空間が歪むのが見えた。彼女の歩いた部分だけ、空気が揺らぎ、足下のものは熱した飴のように溶けていく。
「亮、どこ?」
 声さえも、低く、くぐもって聞こえる。歪められた空間にこだますからか、ガラスでも挟んで聞いているかのような声質になっている。
 名前を呼ばれながら、久我山は母を見つめていた。
 彼女の不思議な力が、周囲のものを歪め、あるいは溶かす。その両目が、不気味に赤く光っているのに気付いた。
 あれは、母さんか?
 自分の名を呼びながら、ゆっくりとこちらにやってくるもの。今朝までは、自分の母だったもの。それを、久我山は見つめていた。
 煌々と光る赤眼が、久我山の姿を捉えたらしい。
 微笑んだ。
 たぶん、そのつもりだったのだろう。口唇は耳まで裂け、中には鋭い牙が幾重にも並んでいた。
 久我山は、ようやく恐怖を覚えた。あまりに唐突なことだったので、神経が麻痺していたとしか思えない。
 逃げ出したい衝動に駆られた。が、全身は自分の意思を無視して少しも動かなかった。
 目も、動かせない。
 おかげで、久我山は自分の母親が異形の姿に変わるところを、最後まで見ることになった。
 まだ、十六だった。
 よほど、強烈な体験だったのだろう。この夢を見るとき、いつもそこだけはスローモーションになって見える。
 赤黒い筋肉が、元の体型を無視して不気味に膨れ上がり、所々は皮を破って露出していた。髪は伸び、両目は赤く輝き、口は耳まで裂けて牙が並ぶ。
 鬼だ。
 すぐに思ったのは、それだ。
 鬼が、鬼が、鬼が。
 思考が止まる。わけがわからなくなって、今にも叫び出しそうだった。
 そして。
 そして…。
 そして……。

 気が付くと、久我山はファーストフード店の一角でウトウトしていた。店員の死角になりやすい、一番奥まった席に座り、かなり遅い夕食だか夜食だかを食べるところだった。
 一口かじったハンバーガーと、食べかけのポテトがトレイの上に散らばっている。その横では、まだ口をつけていないコーヒーが湯気を立てていた。
 何分くらい、寝たんだ。
 およそ、三週間ぶりの睡眠だった。この力を得てからは、意識して睡眠をとったことはない。いつも、今日のように時々ウトウトするだけだ。
 携帯電話を取り出して、時間を見た。五分も寝ていない。
 意識が覚醒するのは一瞬だ。寝ぼけたり、なかなか目が冴えなかったりということはない。深い意識の底から、急速に浮上してくるかのように、一瞬で覚醒するのが常だった。
 いつも通り、喪服じみた恰好だった。今日はスーツだけでなく、シャツもソックスも黒一色で統一されている。
 向こうの席で、大学生らしき女が二人、こちらを盗み見ているようだった。バイトの帰りだろう。ジャージ姿に、大きなスポーツバッグを持っている。体育会系の雰囲気があった。
 奇妙な恰好で、うたた寝をしている男がよほど可笑しかったのだろうか。背も高く、人目を引くような美形なので、どこにいても彼の姿はよく目立つ。
 特に気にするわけでもなく、久我山はハンバーガーの続きをかじった。
 もう一度、時間を確認する。午後十時を少し回ったところだ。
 今夜は、仕事の連絡がない。それはつまり、久我山にとって無為に過ごす時間が延びたということになる。退屈しのぎに訪れたハンバーガーショップは、それほど退屈を紛らわすことはできそうにない。
 今夜は、何をしてヒマを潰そうか。元々、趣味など持ち合わせていない久我山にとって、狩りのない夜ほど退屈なものはない。
 戦いを好むわけではないが、他に何もないならば戦っていた方がいい。眠らない体になって、一番困るのが、長い活動時間をどう消化するかだった。
 今夜も、急に電話がかかってこないだろうか。先程から、何回もそう思っている。
 そう思う時ほど、電話はない。こんな夜は、もう何度も経験していた。
 きっと、自分は狩人には向いていないのだ。獲物をじっくり待って、仕留めるという行為に向いていない。いつでも、後手は嫌いだった。待つことは苦手で、むしろ攻めていく方が性に合っていると思う。
 だが、狩りはそういう具合にはいかない。いつも、狩人は待ちぼうけを食わされる。その期間が不定期で、しかも長い。それが久我山には苦痛だった。
 大して美味くもなさそうに、冷めてボソボソになったポテトを口に運んだ。それを、コーヒーで無理矢理に流し込む。
 本でも持ってきたら良かった。ようやく気がついたが、すでに後の祭りだった。ヒマなときは本を読むことが多いが、ちょうど読みかけの新刊があったことを思い出した。
 しまったな。
 コーヒーをすすりながら、小さく舌打ちする。食べ終わって、一人でぼうっとするような店ではない。客は少なかったが、何もないのにダラダラ居着くわけにもいかなかった。
 仕方なく、食事を終えるとすぐに店から出た。外は、ずいぶん冷え込みが厳しい。ここ数日、寒い日が続いていたが、いよいよ雪でも降りそうな気温だった。
 防寒着も羽織らずに、平気で外に立っているのは久我山くらいのものだ。真っ黒な恰好で、真っ暗な夜に溶け込んでしまっている。
 店の明かりから遠ざかるにつれて、久我山の姿は徐々に闇の中へ消えてしまった。
 特にやることもないので、市街中心部までの一駅分を歩くことにした。
 急速に復興を遂げたとはいえ、新市街の中心部以外はまだまだ暗い。被害を受けて他地域に避難した人々の多くが、天海市に帰ってきていない。
 天海事件のあと、天海市は副首都圏機能とビジネスの中心地として発展しつづけている。交通網の整備やオフィス街の乱立により、住宅地が極端に減っている。
 旧市街を除けば、ほとんどが工業地か商業地、そして官公関係の建物ばかりだ。
 夜遊びをするにはもってこいな歓楽街も備わっている。
 久我山は、新市街中心部への道を一人で歩いていた。時々、車が横を通り過ぎたが、人影はなかった。近頃は物騒な話も多いので、外出を控えているのだろう。
 ふと、しばらく歩いていると、誰かがついて来ていることに気付いた。
 等距離を保って、ずっと後ろを歩いている。いくつかの角をわざと曲がってみたが、やはり尾行されているのは間違いないようだった。どうするべきか迷ったが、そもそも自分が退屈していたことを思い出した。
 速度を変えて歩いたり、方角を色々と変えながら、新市街の裏路地へ出た。
 相手は、こちらを見失わずにしっかりとついて来る。
 空地に足を踏み入れ、そこにあったドラム缶にもたれて相手を待った。
 やがて、のそりと尾行者が姿を現した。それは、真っ黒い大型犬だった。もちろん、ただの犬ではない。二股に分かれた首のどちらもが、凶悪な双眸でこちらを睨みつけている。
 人間以外の獣変の事例は知っていたが、目にするのは初めてだった。よく見れば、双頭ではなく、ひとつの頭が割れてそれぞれが独立している。
 顔の半分ずつが意思を持って、それぞれ生きているのであった。
 対峙する前から、久我山はイメージを練りはじめていた。右腕に力が伝わり、むず痒さとなって右手の指に溜まっていく。
 左右片方ずつしかない犬の両目が、不気味な色でこちらの様子を窺っていた。
 先手を打つ。
 久我山は、低く走った。
 その頭上を、巨体をものともせずに犬が跳んでいた。恐ろしく発達した前足の爪が、死神の鎌のように空を切った。
 久我山は、すれ違いながらも、見えた腹部に掌底を当てた。かすっただけだったが、十分にイメージは通っていた。
 犬が悶えながら爆裂する。
 血も肉片も、あっという間に蒸発して消え失せた。
 軽い運動でもこなしたかのように、久我山は膝についた泥を払って空地を出た。人外の獣変は、たいてい能力者が導いている場合が多いと聞く。だとすれば、今の獣変体が襲ってきたのも、まんざら偶然ではないのかもしれない。
 誰かは知らないが、どうやら退屈はしないですみそうだ。
 空地を出て、久我山は裏路地の方へ戻っていく。
 それからしばらくして、奇妙なことが起こった。爆裂した犬の死骸は塵も残さず消えたはずだったが、その飛び散った一角で動くものがあった。
 細い、糸のようなものであったが、まるでミミズか蛇のようにうねうねとのたうっている。しばらくして、空地にやって来た影があった。
 がっしりとした、体格のいい男である。背も、二メートル近い。首も腕も、丸太のように太い。胸や腹の厚みは、筋肉の鎧といっても差し支えなかった。
 男は、空地に入ってくるなり、奇妙な動きをする糸状の物体を見つめた。暗闇の中、微かにうごめく糸に気づく者などいないはずだが、男はそこに何があるかをあらかじめ知っているようなそぶりだった。
 途端に、糸が飛んだ。
 飛び上がった糸は、男の頭に吸収された。男は、長い髪を束ねて背中に垂らしている。うごめく糸は、その内の一本に紛れ込んでしまった。
「能力者か…」
 ぼそり、と男が呟く。
 野太いが、静かな声音だった。ふっ、と小さく笑みを浮かべて、長髪を撫で付けた。その眼が、紅く光っている。見れば、口角から覗くその歯は、肉食獣のそれであった。
 厚手のジャンパーもごついジーパンも、隆々とした筋肉で膨れ上がっている。
 男は、まるで岩だった。岩に感情があるならば、このような岩であろう。肉食獣の獰猛さを持ち合わせた、巨岩であった。
 笑みを消し、久我山が去って行ったのとは逆方向へ消える。

 どうやら、この階にはいないらしい。そう思って、ふと窓の外を仰いだ。そこには、満月が青白く光っている。
 満月の夜に、狼男か。笑えない組み合わせだった。これほど大量に現れると、もはや見るのも嫌になる。恐怖心もなければ、好奇心も起こらない。
 ただ、作業のように、黙々と確実に浄化を続けるだけだった。
 久我山は、戦いに喜びも悲しみもなければ、強さを追求するわけでも、己の技量を試すわけでもない。ただ、与えられた作業のように、淡々とこなすだけだ。
 なぜなら、彼にとって戦いは、常に仕事でしかないからだ。
 非常階段に戻り、ひとつ下の階へ下りる。フロアを見たが、何の気配もなかった。
 ここでもないか。
 さらに、下へ。今度は気配があった。フロア全体に、獣臭が満ちている。集中して気配を感じ取ると、殺気を帯びた気配が五つあることがわかった。
 全て、獣の気配だ。
 この獣人達を作り出した者がいるはずだ。右手には、イメージが十分に溜めてある。久我山は、ゆっくりとフロアへ進み出た。
 彼が入るなり、狼男が一斉に飛び掛かる。方角もタイミングもバラバラに襲い掛かってきたので、一度に始末することは出来なかった。作っていたイメージで、二匹は吹き飛ばした。
 三匹の攻撃をかわし、置かれていたショーウインドーの陰に身を隠す。すぐに、次のイメージを練りながら、呼吸を整えた。そう簡単に呼吸が乱れるような久我山ではないが、強力なイメージを放つには強力な呼吸が必要となる。
 狼男は、それぞれ分かれてこちらの動きを探っているようだ。
 久我山は、一番近くにいた狼男に向かって、闇の中を走った。わずかな月明かりで、相手の姿は十分に見えている。
 気付いた相手が振り向いたときには、もう久我山の右手から破壊のイメージが解き放たれていた。
 閃光と、悲鳴。他の二匹は、閃光と同時に飛んでいた。一匹はかわす。もう一匹には、着ていたコートを投げつけた。
 先に飛んでいた方へ向け、次の一撃を放つ。短く、しかし力強い呼吸が、範囲を絞った上で凄まじい破壊力を生み出していた。
 一瞬で、狼男の全身がかき消される。悲鳴を上げる暇さえ与えなかった。
 最後の一匹が、顔にかかったコートをひきちぎって襲い掛かってきた。横に避け、イメージを練り直す。
 その瞬間、フロアの奥から飛んできた巨大な槍が、久我山を反対側の壁まで飛ばして縫い付けた。とっさに体をひねったが、避けることは出来なかった。
 腹部を槍に貫かれ、出血がひどい。荒れる呼吸と一緒に、口からも大量の血がこぼれた。
「当たったかな?」
 現れたのは、さっき始末したはずの肥満の男であった。相変わらず、口調が粘着質だ。
「さっきは、驚いたなぁ。まさかあんなにすぐに殺されると思わなかったよ」
 まるで他人事のように言う。ニヤニヤと下品な笑いを浮かべたその顔面を、久我山はすぐにでも消し飛ばしてやりたかった。
「お陰で、僕の人形が減ったじゃないか」
 何が可笑しいのか、男は口許に下卑た笑いを浮かべている。気味の悪い笑みに、久我山はうっすらと殺意を覚えた。
「まあでも、こうなればこっちのもんか」
 男が小さく口笛を吹いた。まるで飼い馴らされた犬のように、狼男がその傍へ寄ってくる。男の足元にしゃがみ込み、動かない。
「なかなか慣れてるだろう?」
 男の声が得意げなのが、久我山にはうっとうしかった。相変わらず浮かべている、下品な笑みもうっとうしい。
「これだけのイメージが君に作れるかな?」
 ニヤニヤ。いったい何がそんなに可笑しいのだろうか。久我山には理解できなかった。イメージを練る。腹を貫かれてはいるが、その程度では精神状態は乱れない。
 だが、男の放つイメージの方が早かった。体を貫く槍が、さらに深々とねじ込まれる。
 久我山の口から、ついに苦悶の呻きが漏れた。
「その傷じゃあ、もう助からないなぁ」
 ペロリと舌なめずりをしてみせる。どこまでも下品で気持ち悪い男だ。久我山は、そう思った。
 腹を貫通する槍は、壁に深々と埋まり、抜けそうになかった。出血もひどい。常人なら、とっくに気絶しているか死にかけている。
「どうやって殺そうかなぁ」
 食事のメニューでも考えるような気安さで、男が小首を傾げた。脂肪の乗った喉元が、蛇腹のように波打つ。
 久我山は、険しい表情のまま冷笑した。この男が初めて見せた、感情らしい感情であった。
 ジロリと男がその顔を睨みつける。瀕死の男に冷笑を浴びせられたのが気に食わなかったようだ。
「なんで、笑ってるのかなぁ?」
 声に怒気があった。
「僕に殺されるんだよ…」
 久我山は、冷笑を浮かべたままだ。そのことが、余計に男のカンに障ったらしい。
「お前は殺されるんだよ!そんな顔するのはおかしいだろう!!」
 男の激情とともに、槍がさらにねじ込まれる。が、久我山は、無理矢理に壁から離れて槍の柄を引き抜いていた。
 壁には槍が突き立ち、そこに縫い付けられていた久我山だけが、ズルリと地面に倒れ込んだ。
 無理矢理に体を引き抜いたせいで、開いた傷口は広がり、血や内蔵の一部がこぼれた。
 男は、まだニヤニヤ笑うのを止めなかった。
 倒れた久我山がのそりと立ち上がる。
 男は、まだニヤニヤしていた。
 立ち上がった久我山は、男を睨みつけた。硬玉のような眼には、言い知れぬ光が宿っていた。鈍く光る、恐ろしいまでの殺意だ。
 ニヤニヤが止まる。
 震えが起きた。
 恐怖のあまり、狼男を制御していた力が緩む。狼男は、血臭に誘われて久我山に飛び掛かる。
 鈍い音がした。
 明らかに体重差のある狼男の首を、正面から掴まえた久我山の右手が握っていた。
 片手で、狼男が身動きを封じられている。いや、すでに首の向きがおかしかった。明らかに、へし折られている。
 目の前で起こった素手による殺戮のせいで、男は全身が粟立つのがわかった。震えが止まらない。歯の根が合わない。
 全身を、恐怖感に食われてしまったようだ。作っていたはずのイメージは、すでに消し飛んでしまっていた。
 狼男の巨体を引きずり、久我山は男に近付いた。
 負傷者の足取りではあったが、これから死にゆくものの最期の歩みではなかった。
 死神だ。
 喪服同然の姿を血染めにして迫る久我山の姿は、男からはそう見えた。さっきは替えの肉体でごまかしたが、今はそうはいかない。
 声が出ない。
 動けない。
 目を閉じられない。
 男は、恐怖に呑まれていた。
 目の前に、久我山が迫る。狼男の死体を、至近距離でかき消して見せた。もう、呼吸を整えて、イメージを発動させている。
 男は、さらに驚愕した。
 久我山の傷が、癒えている。刺し貫いた部分の服が破れ、血が付いていたが、その下には筋肉質の腹部がチラリとのぞいていた。
 嘘だ?!
 ありえない?!
 何だ、こいつは?!
 しゅっ、と久我山が息を吸い込む。脳内で作られた破壊の姿が、右腕を伝って指先へと送り込まれる。
 その指が、男の鼻先に突き付けられていた。
 た、助けて…。
 最期の声は、出たのか出なかったのか。閃光に包まれ、男の姿は消えていた。
 光が収まると、フロアの中は元の暗闇に戻った。闇に目が慣れるのを待たずに、久我山は来た道を戻ってビルの外に出る。
 セーラー服の美少女は、柱にもたれて待っていた。月光に浮かび上がる白い肌は、魔性の色気を放っている。
「あ、お帰りなさい。ちょっとやられたみたいですねぇ」
 痛そうに、顔をしかめながら言う。久我山は、無視して立ち去ろうとした。
「あ、報酬、報酬。忘れるとこでしたぁ」
 彼女が取り出したのは、赤い液体で満たされた小瓶だった。化学実験のサンプルのように、飾り気のないごく普通の小瓶に入れられて、コルク詮がしてある。
 無言で、久我山が手を伸ばす。冗談でもしかけるように、彼女は手を引っ込めた。
 ぎろり、と鋭い目つきで睨みつける。無言の圧力があったが、彼女は大して気にしていないようだった。
「獲物100匹の報酬ですよぅ」
「知ってるよ」
「また、100匹殺せたら、あげますからねぇ」
 念を押すようにそう付け加え、改めて小瓶を差し出す。それをひったくるように奪いとって、すぐに蓋を開けた。甘い、何ともいえない香りが立ち上る。
 久我山は、中身を一気に流し込んだ。嗅覚や味覚よりも、本能がそれを渇望していた。飲んだ瞬間に、全身を言い知れぬ快感が走り回る。
 見ている少女は、満足そうに微笑んでいた。幼児を見守る、母親のような温かさが視線にあった。
 その視線を振りほどくように、久我山は小瓶を突き返した。少女は、瓶を受け取りながらまだ微笑んでいる。
「次も頑張ってくださいねぇ」
 それには答えずに、久我山は彼女に言った。
「今日の奴は、かなりの数の獣変を行っていた。それと、人形使いもな」
 そこで言葉を切り、少女の反応を待ったが、彼女は黙って聞いているだけだった。
 仕方なく、久我山は言葉を接いだ。
「力を持つ者が増えているんじゃないのか?」
 それを狩るのが自分の役目だったが、数が増えれば増えるほどに一人でやることが増えていく。元を断つことは出来ないのか、と暗に含んだ言い方だった。
 あるいは、何らかの対策を打つか。基本的に、力を持つ者を発見して始末していく今のやり方は、どこまでいっても後手後手だ。もっと、根本的にやり方を変えるべきだ。
 久我山は、そう思っている。
「今まで通り、こちらがお願いしたときに働いてくれればいいですよぅ」
 だが、彼女には別の思惑があるようだった。キッパリとそう言ってから、こちらに背を向けて歩きだす。
 仕方なく、久我山も歩く。少女は、市街の方へと去っていく。最後に、少しだけ振り返ると、ウインクを残して消えた。
 久我山は、新市街の方へ。閑静な住宅地が広がる旧市街に比べ、新市街は雑多な街だ。今も、新市街の方角は、ネオンの光を放っている。
 その、眠らない街に、久我山は帰っていく。彼もまた、眠りを知らない人種だった。
 帰ったら、シャワーを浴びて、着替える。そして、行きつけのバーにでも繰り出そう。
 今夜も、眠れそうになかった。バーボンでも傾けて、少しでも高ぶった意識を沈めたかった。

 狩りは、いつも夜に決まっていた。理由は簡単で、夜にしか獲物が現れないからだ。
 凍りつくような寒風を浴びながらも、男は平然と立っていた。長身でスラリとした印象の男だ。どこから見ても、信じられないほどの美形である。まるで彫像のように、身じろぎもせずに立つその姿には、いっそ神々しささえも感じられた。
 美男子だが、ひ弱な印象は少しもなかった。徹底的に無駄を削ぎ落とした、ある種の完成形のような雰囲気がある。
 斬ることにこだわってのみ研き続けた、刃物のような美しさであった。
 男は、黒いスーツを着ている。ネクタイまで黒く、まるで喪服のような佇まいだった。
 その上に、灰色のコートを引っ掛けていた。
 葬式にでも参列するのかと思えば、今、男が立っているのは廃ビルの入口である。こんなところで葬式などあるはずもなかった。
 男は、寒さを感じていないようだった。誰かを待っているのか、時々左手の腕時計を気にしているようだ。
 ふと、気配を感じる。
 視線を走らせると、通りの向こうから奇妙な生物がやって来るのが見えた。
 全身、毛むくじゃらの、狼男としか呼べない生物だった。元は人間であったのだとわかるのは、体にまとわりついている布切れが明らかに衣服の一部だとわかったからだ。膨張した筋肉のせいで爆ぜたと思しきジャージの一部が、腕や腰回りに残っていた。
 狼男は、こちらの様子を窺うように、ゆっくりと近付いて来る。
 こちらを警戒しているように見えたが、男の方は突如現れた化け物に対して、特に警戒心を抱いていないようだった。
 冷ややかな目で、その動きを追っている。
 狼男が、いきなり跳躍した。凄まじい速度で、男に飛び掛かる。だが、その一撃を男は難無くかわしてみせた。
 狼男が落下した地面は、アスファルトが蜘蛛の巣状にひび割れている。男の方は、軽く跳躍しただけで、その圏外に逃れていた。
 狼男がもう一度飛び掛かった。今度は、横飛びに襲い掛かる。弾丸のような、目にも留まらぬ速度だった。
 男は、しゃがんでかわす。ついでに、足を引っ掛けて、狼男を転倒させた。
 男の頭の中で、破壊のイメージが組み上がる。そのイメージが、質量を持った力となって彼の右腕を走った。
 指先が、むず痒くなるような気がした。イメージが十分に練られた感触だった。男は、右手を狼男に向けてかざした。
 呼吸が、練ったイメージを外界に解き放つ。
 次の瞬間、閃光が走った。
 男の掌から狼男に向けて放たれた閃光は、たちまちのうちに狼男を破壊していた。まるで、風船が割れるように、狼男は内部から破裂していた。
 血と肉片が飛び散り、辺りにばらまかれた。が、落ちた端から、それらは全て煙を上げて自壊しはじめる。返り血を浴びた箇所でさえ、何事もなかったかのようにすぐ乾いた。
 パチパチと、拍手する者があった。いつの間に現れたのか、廃ビルの入口にはセーラー服の少女が立っている。背が高く、男の欲情をそそるような肉感的な肢体をしていた。
 しかし、その四肢とは裏腹に、長いストレートの黒髪に包まれた顔は、少女のあどけなさを残している。
 彼女は、男の方へゆっくりやってきた。
「さすが、さすがぁ」
 おっとりとした、鼻にかかった甘い声が鼓膜に絡み付く。だが、男は眉ひとつ動かさなかった。
 少女はモデルのような長身だったが、男はさらに背が高い。並んでみると、男の方が頭ふたつほど抜いていた。
「今日も、しっかり狩りをしてくれそうですねぇ」
 言ってから、小さく笑って見せる。どんな男でも骨まで溶けてしまいそうな、淫靡な微笑みだ。驚くべきは、それを見ても表情を変えない男の方だろう。
「黙れよ」
 低い、ハスキーな声音だ。男は鋭い目で彼女を制し、ビルの入口に向かって足を進めた。バブルの折に建設された、テナントビルの成れの果てだ。持ち主を次々に変え、あるいは中のテナントも入れ代わったが、結局うまくいかなかった。
 今では、時々怪談話のネタに挙がるくらいである。
「中には、今のがたくさんいますよぅ。用心してくださいね」
 背後から声がしたが、男はあえて無視した。
「頑張ってくださいねぇ、久我山さん」
 久我山、と声をかけられたが、男は振り返らずにビルへと入っていった。入口の鍵はかかっていない。入ると、すぐ正面がエレベーターだった。
 電気が通っていないので、当然使用することはできない。右手の奥に、非常階段の表示が見えた。男―久我山と呼ばれていた―は、大して警戒する様子もなく、そちらの方へ歩いていく。
 扉の向こうは、さすがに暗かった。非常階段は屋内に設置されていたが、その途中には窓が設けられていなかった。
 それでも、久我山の歩みは普段と変わることはなかった。
 平然と、真っ暗な非常階段を上っていく。夜目が効くとか、勘が鋭いとかいうことではなさそうだった。もちろん、無謀なわけでもない。そうではなくて、この歩みは絶対的な自信の表れである。
 相変わらずのポーカーフェイスであったが、恐怖を隠しているわけではない。どんなことが起こっても、乗り切ってみせる自信があった。
 途中の階には目もくれず、久我山はドンドン上っていく。歩く速度は、少しも変わらなかった。
 しばらくして、屋上の入口が目に入る。が、彼が向かったのは、そのひとつ下の扉だった。つまりは、このビルの最上階である。
 扉を開ける。
 いきなり、狼男が跳んできた。
 だが、久我山にはすでに準備があった。右腕を走らせたイメージは、すでに指先に集中してある。
 しゅっ、と息を吸い込む。そして、息を吐くとともに、練り上げた破壊のイメージも吐き出した。
 閃光が走り、たちまち狼男は破裂した。
 素早く視線を走らせると、フロアには五、六匹の狼男がいた。素早く、扉の向こうへ飛び込んだ。廊下にいた狼男達が、一斉に襲い掛かってきた。
 それをかわしながら、再び破壊のイメージを練り上げる。広範囲へ放てるよう、そのイメージを自分の両手に送り込んだ。
 指先がむず痒い。それに続き、両手が熱を帯びた。
 イメージは練られた。
 両手の掌を開き、まとめて対象を破壊する。その場にいた狼男達は、閃光とともにまとめて吹き飛ばされた。蒸発したかのように、その姿は光の中にかき消される。
 一息つく。
 イメージを練り上げることよりも、それを具現化させることの方が難しい。まして、これほど連続でしかも破壊力のあるイメージを使うには相当の修練を要する。
 久我山は、改めて辺りを見回した。フロアには、多くのテナントスペースが並んでいる。今はもう店舗はないが、備品の一部は置かれたままになっていた。他にも、獣人はどこかに潜んでいるかもしれない。
 それにしても、これほど同じ系統の獣人が現れるのも珍しい。
 そもそも、元になる人間の潜在意識によって、その姿を大きく変えるのが獣人の特徴である。これだけの数の獣人が一度に現れることも珍しいが、それよりも、獣変を導いている者がいると考えるべきだろう。
 何者だ。
 闇の中を平然と歩きながら、気を抜かず周囲に目を走らす。
 脳内で組み上げたイメージは、すでに右腕を通して右掌に流し込んでいる。後は、呼吸ひとつでいつでも放てる。
 特に目指す場所があるわけではなかったが、とりあえずフロアの奥へと進む。天井から吊られた案内板には、トイレと階段の位置が書き込まれていた。
 ふと、イメージが発動する気配を感じ、久我山は振り返った。
 狼男が三匹、ギラギラと目を光らせている。そして、それらに囲まれて、一人の男が立っていた。
 太り、脂ぎった中年のサラリーマン風の男である。髪もやや寂しくなり、額は浮き上がった脂でギトギトしていた。不摂生が祟ったと一目でわかるような体型を品の良いスーツで包み、男は下卑た薄ら笑いを浮かべて立っていた。
 ふん、と興味なさそうに久我山は鼻を鳴らした。いきなり、右手に溜めていたイメージを解き放った。
 閃光が渦を巻き、男と取り巻きの狼男に炸裂する。一瞬で、狼男が消し飛んだ。
 が、男は平然と立っている。相変わらず、ニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべていた。
「その程度のイメージでは、この僕には通用しないよ」
 声まで、脂ぎったように粘性があった。久我山は、大して興味なさそうに、男の挙動を見ている。
 男は、右手を胸の前に差し出した。イメージが、一瞬で具現化する。強烈な風が、巨大な刃物のような勢いで久我山に迫る。
 つまらないものでも見るかのように、久我山はその動きを見ていた。迫る風刃を、まるで掴み取るかのように右手を走らせる。
 一瞬、男が目を見張った。
 久我山が走る。
 あっという間に、二人の距離が詰まった。男は、焦って後方へ下がる。だが、久我山がそれをさせなかった。男の足を踏み付けて、移動を完全に殺す。
 あっ、と声を上げる間もなく、久我山の右拳が男のこめかみに打ち込まれていた。
 ぽん、と軽い衝撃が抜ける。
 イメージを使う者同士が戦う際には、イメージを相殺されることが常だ。脳内のイメージを呼吸と共に吐き出し、具現化する手法では、それ以上のイメージをぶつけられると威力を失う。
 そこで、久我山が使うのが、イメージを格闘攻撃に乗せて直接打ち込む方法である。
 これなら、イメージの威力を消されることなく、十分に破壊力を伝えることができるのである。
 男は、通常のイメージを用いた戦闘しか経験していなかったのであろう。久我山に打ち込まれた拳の意味を理解できず、不思議そうにしていた。
 やがて、イメージが発現したとき、男の五体は爆ぜ、全身粉々に吹き飛んでいた。
 次の瞬間にはもう、男の肉片は雲散霧消していた。
 妙だな、と久我山は眉根を寄せた。確かにイメージ使いではあったが、獣変を導くほどの強力な使い手ではなかった。
 まだ、いるのかもしれない。
 油断なく、次のイメージを練りはじめる。力が、右腕を伝わっていくのを感じた。
 指先に、軽い痺れが起こる。十分に、イメージが溜まっている感覚だった。
 しばらく、その場を動かないでいたが、やがてフロアを移動しはじめる。あくまでも、その足取りは自然だった。

 日付は変わったが、まだまだ明け方までは時間がある。ここ数日は、厳しい寒さが続いていた。
 白い息を吐きながら、赤井雄介は帰り道を歩いていた。バイト先の飲み会が終わって店から出てみると、彼の自転車は消えていた。
 明日から、しばらく不自由することになりそうだ。大学生になっても、彼はまだ運転免許を持っていなかった。原付きだけでも、乗れた方がいいとわかっていたが、免許を取っても乗るバイクを買う金が貯まらない。
 それで、今まで免許を取らずに生きてきた。
 そんな彼の大事な移動手段が、さっきなくなった自転車だ。そう高い物ではなかったが、高校一年生からずっと乗っていた自転車だった。
 盗むなら、もっと金持ちから盗めよなあ。いまさら毒づいたところでどうにもならないが、この寒さの中を歩かされている身からすると非常に腹立たしい。
 大学の学費を自分で働いて工面している雄介からすれば、自転車を買い直すのは結構な負担だ。
 盗んだ奴は、どうせ軽い気持ちで盗んでいったんだろうけどな。そう思うと、ますます腹が立つ。
 どうせ、駅まで乗って捨てるんだろう。乗り捨てにするくらいなら盗むなよ。
 だんだん、怒りが収まらなくなってきた。盗んだのは、その辺の酔っ払いか。それとも、塾で遅くなった高校生か。
 人の苦労も知らずに、馬鹿にしている。
 今日は無性に腹が立つ。歩きながら、落ちていた空き缶を思いっきり蹴飛ばした。空き缶はまっすぐに飛んで行ったかと思うと、民家のブロック塀に突き刺さった。
 ギョッとした。
 少し酔っていたので、目の錯覚かとも思ったが、どうやらそうではなかった。塀に突き刺さった空き缶は、かすかに白い煙を上げている。
 驚いて、塀に近付いた。
 缶を引き抜くと、かなり深々とブロックに穴が空いている。雄介は自分の目が信じられなかった。
 これって、俺が蹴った缶だよなあ?
 首を傾げた。わけがわからず、缶と塀の穴を何度も見比べる。普通、こんなことはできっこない。それだけはハッキリとわかった。
 しかし、いったいどうして。混乱しそうになる頭を、何とか理性でつなぎ止めた。
 俺が蹴った。
 飛んで行った。
 塀に刺さった。
 思い出す。
 何度でも。
 間違いない。今、確認し直した順番で間違いない。
 どうなってるんだ?
 考えていると、急に腹が減ってきた。さっきまで飲み屋でしこたま食べていたのに、もう腹が減ってきた。
 ありえない。これは夢か。
 匂いがする。
 食べ物が歩いて来る匂いだ。
 振り返った。
 かなり距離があるのに、こちらへ来るのがハッキリと見えた。
 ありえない。これは何だ。
 しかし、腹が減った。食べ物が歩いて来るのは好都合だ。
 視覚と嗅覚で、食べ物が雌だとわかった。まだ若い。恰好からすれば、大人になって間もない雌だろう。スーツの着方がどこかぎこちない。
 跳んだ。
 一瞬で、塀の上の木の枝まで跳べた。枝に掴まって、食べ物が下に来るのを待つ。
 足音が聞こえる。
 ますます、正確な位置がわかった。食事開始はどうやら十五秒後になりそうだ。
 しかし、なぜ自分にはそんなことがわかるのだろう。
 ありえない。
 いよいよ、美味そうな雌が下に見えた。いや、見えたというよりは感じた。
 見えたような感じたような気がしたので、とにかく獲物に飛び掛かった。
 悲鳴を上げられないように、最初に喉に噛み付く。肉を引き裂くのは簡単だった。爪も牙も、食事をするには十分役立った。
 この肉は初めて味わう。
 柔らかく、温かい肉は美味だった。いつも食費を切り詰めているので、余計に美味く感じる。
 貪った。
 一度噛み締めると、止まらなくなる美味さだった。ああ、とても美味い。こんな美味いものがこの世にあったのか。
 貪っていると、背後に気配があった。
 塀に挟まれた路地に、今度は細身の雄が立っている。ここは駅への近道だから、道を知っているものはみんな通り抜ける。
 今度のは美味くなさそうだ。
 狩りはしても、食べずに捨てよう。そう思った。
 立っている雄は、なぜか余裕があるようだった。今、自分が組み敷いている雌と、同じ運命になるのがわからないらしい。
 雄は、こちらを見据えて立っている。牙も爪も、こちらと比べればあまりに非力だ。おまけに、武器もないようだ。
 吠えてみた。
 目の前の雄は驚かない。恐怖しない。ただ、突っ立っている。
 馬鹿にしている。そう思うと、無性に腹が立った。
 雌が好みそうな面構えを、グシャグシャに破壊してやろうと飛び掛かる。が、かわされた。
 そう遅い動きではなかったはずだが、雄は右に跳んでかわした。獲物のくせに、生意気なことをする。
 腹が立った。
 咆哮を上げていた。
 もう一度、飛び掛かる。
 両腕で、そしてその爪で、全身をグチャグチャに砕いて肉塊にしてやるつもりだった。
 瞬間、雄の姿が消えた。
 どこだ。全神経を集中して探そうとした。
 ふと、雄の右手が、こちらの顔を覆った。目隠しをされたように何も見えなくなる。
 次の瞬間、何も考えられなくなっていた。急に、目の前が真っ白になる。
 温かいような、寒いような、よくわからない感覚だ。真っ白で、真っ白で、真っ白で…。
 全ての感覚が途切れた。

 男は、目の前で自壊していく化け物を見下ろしていた。細身で、女性が好みそうな美男子だった。背が高いせいか、余計にスラリとして見える。
 地面には、もうひとつ死体が転がっていた。男を誘惑しそうな魅惑的な体は、今は無残にも内蔵にいたるまでさらされている。
 だが、美男子はそれを見ても表情を変えなかった。
「あちゃあ、手遅れでしたねえ」
 どことなく間延びしたような、緊張感のない声が後ろから聞こえた。振り返ると、そこにはセーラー服を着た美少女が立っていた。
 着ているものが不自然に感じられるほど、彼女の肢体は女性的な魅力にあふれていた。背が高く、胸も尻も官能的な丸みを帯びている。
 ただ、黒いまっすぐな髪に包まれた顔は、ややあどけなさを残していた。
「もうちょっとだけ、早く来れてたら良かったんですけどねえ」
 それに、この間延びした声。やや鼻にかかったような甘い声は、熟れた女性が持つ肉感的な色気とは無縁であった。
 美男子は、何も言わずに少女を傍らに抱き寄せた。
「あらら…ダメですよぅ」
 困ったように呟く彼女の耳元で美男子はそっと囁いた。
「ふざけるな。あと何匹始末すればいい?」
 スルリと、美少女が男の腕を抜け出した。
 さあ、とおどけたように首を傾げて、ニコニコと微笑んでいる。
 男は、その顔を睨みつけて、無言のままに立っていた。
 気が付けば、男の足下にあった化け物の死体は、すっかり蒸発してなくなっていた。



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