my魂

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 今、自分の身に起こっていることは、全て普通のことである。
 そんな考えを持っています。
 キッカケは、母が脳梗塞で倒れて、右足が麻痺したときです。
 認知症も進み、トイレに行くのも遅れるようになりました。
 母の世話をしなければ。
 代わって、家事をしなければ。
 私は、半ば使命感のようなものでその現実に立ち向かおうとしました。
 親孝行せねば。
 息子として当然。
 そう思う気持ちが強く、ただそれだけで乗り越えようとしていました。
 しかし、現実に、仕事から帰ってトイレから部屋までの間に小便や大便が散らばっていると、げんなりしてしまいます。
 荷物を置いて、バケツと雑巾で廊下を拭いている現実の前には、使命感もクソもありません。
 親への恩返し、という綺麗事で飾ってはいても、嫌だなぁと思ってしまう自分がいました。
 そして、そのことを恥じたこともました。
 そんな日々が続き、ある日気付いたのです。
 本当は、やらなければならない理由などないのではないか。
 試しに、やらなくていい理由を考えてみたところ、いくらでも思いつきました。ところが、逆にやるべき理由もいくらでも思いつきます。
 つまり、理由などは後からのこじつけに過ぎないと思いました。
 要は、普通のことなのです。
 母が倒れて、認知症が一気に進み、排泄の世話をするような事態になったら、誰だって同じように悩んだり迷ったりするはずです。
 たまたま、それが私のところに来ただけであって、誰にだって起こりえることなのです。
 そう思うと、私の気持ちは楽になりました。
 
 
 で、そこから発展して思考してみたのですが、ではその確率はいったいどれくらいあるのか。
 おそらく、50億分の1だろうということです
 そう。普通のことだと言い切れるのは、全人類の中で今まさに自分に起きていることだからです。
 つまり「全人類の数」分の1で起こることだと証明できます。
 では、他に起きる可能性はないのでしょうか?
 本当に、自分だけに起きることではないと言い切れるのでしょうか?
 それについても、このように考えてみました。
 今、自分が苦しんでいる事象は間違いなく今ここで起きている。ということは、起こる確率は0%ではない。
 0%でないということは、必ずいつかは起こることである。
 サイコロを振っていれば、いつかは1が出るように。
 早いか遅いかの問題で、いずれ必ず出るときが来る。それが、この時代にたまたま自分に巡って来ただけである。
 つまり、今、起こっていることはいずれ必ず起こることであり、それが誰に巡って来るかはわからない、ということがわかります。
 だから、今、自分に起きていることは全て普通のことだといえるのです。
 もしこれが確率操作され、特定の者にしか巡って来ないのであれば、それは普通ではありません。
 しかし、実際には、幸福や不幸を確率操作できるとは考えにくいです。
 だからこそ、起こることは全て普通のことで、それゆえに人間は平等であるといえるのではないでしょうか。
 今あることは、誰にでも起こることである。
 あるいは、いつかは必ずこの地球上で起こるべきことだ。
 そのように考えられました。
 すると、次のように考えられました。
 頑張らなければ、と思う自分も普通の姿。
 サボりたい、と思う自分も普通の姿。
 どちらも、普通のこと。起こりえること。自然なこと。
 では、どちらを選びたいのか?
 それが大事だと思います。
 何を選んでも普通ならば、それを選ぶのは自分の意思。何を選んでもいいし、選ぶことができる。また、選ばないこともできる。
 それが、普通。
 そう思うと、私は目の前のあらゆる課題に対して、気楽に、しかし真剣に前向きに取り組めるのです。
 けして、身構えるでもなく、悲観するでもなく、普通のことだからこそ、自分の意思で思うように決められる。
 そう思うと、人生とは自由なものだと感じられてなりません。


 他人に頼らない人。
 相談をしない。
 自分は正しいと思っている。
 頑固。

 そんな風に、言われたことがありました。
 他人を心から信用していない、と言われたこともあります。
 まあ、そうかも。
 そう思っていました。
 最後に頼れるのは自分だけ。
 人生最大の勝負は自分の力だけで切り抜けなければならない。
 そう思っていました。
 みんなで遊んでいるとき、ふと疎外感を感じてどうしようもなく独りになりたくなったり。
 独りで思索にふけり、人生とは…とか、自分の生き方とは…といったことを考えたりすることがあったり。
 いつの頃からか、人は独りでは生きてはいけないと思うようになり、人と人との繋がりを大事にするようになりました。
 丸くなった、と言われるたびに私は弱くなったと思いました。
 かつてギラギラしていた自分はどこかに消えて、人と馴れ合い、群れを好む人間になってしまったのだと思いました。
 それは孤高の精神ではないと。
 一匹狼の強さではないと。
 かつて、私は私以外の全てを見下していました。
 俺は正しい。
 俺は優れている。
 俺はこれで終わらない。
 もっともっと、俺は出来る。
 俺なら。
 俺が。
 どこを切っても、私は「俺が」という我だけで生きていました。
 今、こうしてあの頃の自分を冷静に見つめられることが不思議なくらい、私は不出来な人間です。
 ずっとあのまま、孤高を気取って孤独に終わっていたかもしれない人間です。

 でも、そうなりませんでした。

 かつて、孤高を気取っていた私は、あらゆる関係を断ち切って独りの思索にふけることが出来ました。
 今は、出来ません。
 どれだけ独りぶっても、常に心の奥から離れない人がいるからです。昔のように、孤独癖とでも呼ぶべき悪い虫がやってきたとしても、心の奥からそれを追い出すことは出来ません。
 大切な人がいる、という気持ちはこういうものかと、自分でも改めて驚いたほどです。
 孤高ぶっていた私は、他人に愛着を持つなど考えられませんでした。むしろ、自分にはそういう感情が芽生えないとさえ思っていました。
 そんな自分を人間的に劣っていると思い、不完全だと思うことさえありました。
 自分は孤高だ、誰の力にも頼らず生きていくのだ、と思っているうちは、そんな劣等感を拭い去ることは出来ませんでした。
 今、私は色々な人と繋がっています。繋がりの中で、少しでも他者の役に立って生きていこうと必死です。
 
 かつて、私はこう書きました。
 
 この世に親も子もなし。
 人は独り。

 今は、別のことを心に刻んでいます。

 人は独りでは生きられない。

 大切な人が、私の心を溶かしてしまったのだ。
 そう思い、感謝しています。
 独りより、二人。
 二人より、三人。
 我がのために生きるより、誰かのために生きる生き方。

 丸くなってしまいましたが、そんな自分がとても好きです。

 気付けて、良かった。

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