どんな集団も、必ず教育をすべきである。
 これは、私のモットーです。
 会社、学校、クラブチームなどの集団には、教育がなければ上手く回りません。
 人間が何人か集まり集団を形成していく上で、集団のルールを守り、集団の中で役割を見つけるのは当然のことだと思います。
 そもそも、集団にいることと集団に所属することは別だと思うのです。
 その違いは、集団に対して何か返しているかどうか。つまり、貢献できているかどうかです。
 集団にいながら、役割を担わず何も貢献しない人は、単にいるだけの人です。
 それはゲストであり、メンバーとは言えません。
 集団の一員として所属するのであれば、集団に対して何か返すものがなければいけません。
 役職につくのもそうですし、自分しか出来ない仕事をするのもそうです。率先して、何か仕事をするのもいいでしょう。
 あるいは、みんなの愚痴を聞いたり、場を明るくしたりする。これだって、立派な役割です。
 要は、集団に感謝して、そのために何かしていればそれで良いのです。
 そのためには、集団のルールを理解し、何らかの役割を与えられたり、何をもって集団に貢献できるかを示唆される機会が必要だと思います。
 それこそが、集団における教育の機会です。
 自分が所属する集団のルールを知り、役割を知り、その上でどうやって貢献できるかを考える。
 それは、放っておいて自然にできるようになるものではないと思います。
 すでに、それを実践しているであろう先輩や、集団の中におけるリーダーが教え導くことで、新しく入った人間は所属意識を持ち、ゲストからメンバーに成長していくのです。
 そのためには、集団内に教育の仕組みがなければなりません。
 その仕組みは、①未経験者を一人前のプロに育て上げるプロセスであり、②集団への所属意識を持たせるものである、というものであるべきです。
 そのためには、①満点主義ではなく合格点主義での評価、②目に見えて成果が表れる工夫、が必要だと思われます。
 合格点主義での教育は、およそ六割を越えられるように指導することを目標とし、残る四割は自助努力の余地として残します。
 百点満点ではなく、ギリギリ合格の六十点。集団の仕事や活動の中で常にこのラインを狙っていくことで、少しずつ成長していくことができます。
 これが五十点では、五分五分となるため自分の力で成したという満足感がありませんが、六十点を取ろうと思えば努力しなければなりません。その努力が達成感となり、「やった」という満足感が次への推進力になります。
 また、努力の余地が四十点分も残っているので、より努力する者には挑戦の機会を与えることになります。
 一般的に、百点を取ろうと思えば百二十点~百五十点分の努力が必要となります。
 つまり、六十点を合格点としておけば、努力の余地は実際には六十~九十点分も残ることになるわけです。
 このような仕組みで、素人を玄人に変える。あるいは確かな技術を身につけるプロセスとするのが良いでしょう。
 もうひとつは、その成果が目に見えてわかるということです。
 見える化、ということがよく言われますが、全ての成果を見える化しなければなりません。
 その第一歩は、評価基準の共有化です。例えば、六十点と五十九点では何が違うのか。
 ギリギリ合格ラインでの一点です。評価者と対象との間で明確な基準が見えていなければ、努力のしようも評価のしようもなくなります。
 しかし、これが共有化できていれば、一点上がったときに「なぜその一点が増えたか」がすぐに理解できます。
 それは、「一点分の進歩」が見える化された状態だと言えます。
 成果の示し方は、集団によって様々な方法があると思います。ただ、例として挙げたように、評価基準を共有化することで、成果を可視化することができます。
 このような仕組みを作り、集団の中で達成感を得させ、成果が見えるようになれば、その人はゲストではなくメンバーとして生きていくことができるでしょう。
 集団に所属していながら所属意識が薄いということは、おそらく集団内の教育プロセスが停止状態に陥っているのだと思われます。